内海皓太候補生「何者かになれたかもしれない」独立リーグ出身者インタビュー企画 #1

プロ野球選手を目指し、独立リーグで夢を追い続けた選手たち。その中には、野球とはまったく異なる「競輪」という世界に、新たな可能性を見出した人たちがいます。
なぜ、野球から競輪へ飛び込んだのか。競技経験のない自転車でプロを目指すまでに、どんな壁があったのか。そして、野球に懸けてきた時間は、競輪選手を目指す現在にどう活かされているのか。
この企画では独立リーグから競輪の世界へ転身した選手を紹介します。第1回は、愛媛マンダリンパイレーツで投手としてプレーし、プロ野球を目指していた内海皓太候補生です。

Q:野球を始めたきっかけを教えてください。
父親が大学まで野球をやっていて、その影響です。小さい頃から父にキャッチボールを教えてもらって、自然と野球を始めました。
Q:プロ野球を目指すようになったのはいつ頃ですか?
大阪教育大学に入学して、2年生くらいの時です。大学の野球部を辞めて関西の独立リーグへ入ったんですが、そのタイミングで「プロ野球選手になろう」と強く意識するようになりました。大学で、元広島東洋カープのコーチを務めていた方に指導していただく機会があったんです。その方からプロの世界の話を聞くうちに、「自分もその舞台に行ってみたい」という思いがどんどん強くなりました。
Q:大学野球部を辞めて独立リーグへ進んだのも、その思いがあったから?
そうですね。ちょうどコロナ禍で大学の授業がオンラインになっていたので、学校へ通わなくても課題を提出すれば単位が取れる状況でした。それなら独立リーグでプレーしながら大学も続けられると思って、挑戦を決めました。独立リーグに入ってからは、本当にプロ野球一本という気持ちでした。
Q:大学卒業後、四国アイランドリーグplusの愛媛マンダリンパイレーツに入団されました。
トライアウトを受けました。四国アイランドリーグはスカウトの方にも見てもらいやすい環境だと聞いていましたし、プロへ近づくためには1番いい場所だと考えました。ただ、最初から「大学卒業から2年以内にプロへ行けなかったら辞める」と決めていました。独立リーグは金銭的にも厳しい世界です。ドラフトは同じ能力の選手がいれば若い選手を獲得するのが常ですから。自分の年齢を考えても、その2年間が勝負だと思っていました。

愛媛マンダリンパイレーツ時代の内海候補生
Q:愛媛に入団後、球速も150km/hを超えるようになり、2年目は成績も良い形で残されています。プロ入りへの手応えはありましたか。
正直、2年目は「指名される」と思っていました。実際に3球団くらいから調査書もいただいていましたし、「これはいけるかな」と思っていましたが、結局指名はありませんでした。
あの時は、本当にきつかったです。僕は小さい頃から、決して上手い選手ではありませんでした。だからこそ「見返したい」という気持ちが強くありました。「プロへ行けたら全部ひっくり返せる」と思って努力を続けていたので、最初はショックが大きかったですね。

Q:野球を辞めることに対してはどんな思いでしたか。
思っていたよりはあっさりしていたと思います。「最後までつかみ切れなかった」という気持ちはありましたけど、一方で、ここまでの選手になれたことに、どこか満足している自分もいたんです。最後の1年間で結果も出ましたし、球速もプロで通用すると言われるくらいまで伸びました。それほど成長したことで「あの頃の自分を見返せた」という気持ちが少しありました。だから、どこかで満足してしまった部分もあったのかな、と今では思います。

心のどこかでもやもやしたものを抱えていた
Q:野球を引退すると決めた後は、どのように過ごしていましたか。
10月のドラフトが終わった後、球団からは「もう1年やってみないか」と声をかけてもらっていて、交渉のために愛媛に残っていました。ただ、自分の中ではやり切った感覚もあったし、2年のリミットも決めていたのでお断りしたんです。
ただ、野球から離れて1か月くらい経った頃に、心のどこかに虚無感や悔しさをじわじわと感じるようになりました。「まだ身体は動くし、このまま終わるのは違うな」と。
Q:そこから、なぜ競輪だったのでしょうか。
当時活動していた球場のすぐ隣に松山競輪場があったので、競輪自体は以前から知っていました。何度かレースを見に行ったこともありました。他競技から転向して活躍している選手が多いことも知っていたので、「自分にもできるのかな」と思ったんです。
ちょうど球団との契約交渉の時にその話をしたら、当時のコーチが今の師匠である伊代野貴照選手(奈良/101期)と阪神タイガース時代にチームメイトだったというつながりがあって、「1度話を聞いてみたらどうだ」と紹介していただきました。
Q:実際に会って、どんな話を聞きましたか。
年が明けた1月頃に伊予野さんを尋ねました。競輪選手がどういう職業なのか、競輪選手になるまでにどれくらい時間がかかるのか、養成所ではどんな生活を送るのか、デビューしてからはどんな世界なのか。本当に一から教えていただきました。それまでは競輪について詳しく知っていたわけではなかったので、話を聞きながら、少しずつ競輪選手という職業が現実的な選択肢になっていきました。
Q:一般企業への就職など、ほかの道もあったと思います。
勝負の世界で生きていきたいという気持ちも強かったですね。この年齢から新しく始めてプロを目指せる競技って、僕の中では競輪くらいしかありませんでした。
それに競輪は、自分が結果を出せば、その結果がそのまま収入にもつながる世界です。数字ではっきり評価される競技なので、そこが一般的な仕事とは大きく違うと感じました。

甘さもあり、1度目の試験は不合格に
Q:競輪選手を目指すと決めてから、どのような練習を始めましたか。
当時は考えも甘かったので、「1〜2か月あれば何とかなるだろう」と思っていました。プロ野球を目指して身体は作ってきましたし、プロアスリートになれるフィジカルはあると思っていましたから。
技能試験で養成所を受験するつもりで、バンクで練習させてもらったり、街道練習をしたりして、ずっと自転車に乗っていました。でも、タイムがまったく出ませんでした。一緒に練習を始めた一般の方よりも遅いくらいだったと思います。
2〜3か月くらい経って、ようやく少しタイムが出始めたかなという感じでした。
Q:その後は順調に伸びたのでしょうか。
8月頃までは「このままいけば受かるだろう」と思っていましたが、そこからタイムがまったく伸びなくなってしまいました。当時は自転車に関する知識が本当に何もなくて、「どうやって乗れば速くなるのか」「何を意識すればいいのか」も分からないまま、感覚だけで練習していました。だから、そこで伸びが止まってしまったんだと思います。
試験の1か月くらい前から、「これは厳しいかもしれない」と感じ始めて…実際に試験で走った時も「あ、落ちたな」と感覚でわかってしまいました。覚悟もしていたので、不合格の結果が出た時もそこまで落ち込みませんでした。
ただ、「1年で受かるつもりだったのに、これからどうしよう」という気持ちは正直ありましたね。
Q:ご家族にも伝えなければいけません。
「1年で絶対受かる」と言っていたので、本当に言いづらかったですね。それでも「もう1年だけ挑戦したい」とお願いしました。両親とも「今年ダメだったら本当に考えないといけないぞ」という話もしながら、何とか続けさせてもらいました。
ちょうどその頃、弟も大学4年生で就職活動を終えたタイミングで。弟も一緒にアマチュアとして競輪選手を目指し始めることになりました。同じ師匠のもとで練習を始めることになり、自分自身も前向きな気持ちで練習を続けることができました。最終的に弟は就職する道を選びましたが、「もし僕がプロで活躍したら、また挑戦するかもしれない」と話しています。家族としても、一緒に頑張る雰囲気はありましたね。

悔しさを感じつつも、現実的な判断で合格へ
Q:2年目は精神的にも苦しかったのでは?
本当にめちゃくちゃきつかったです。1番つらかったのは、やっぱりタイムです。タイムが全然伸びなかったんです。試験まで残り何か月と近づいてくる中で、数字だけがずっと変わらない。「また2年目もダメなんじゃないか」。そんな恐怖は常にありました。「これでダメだったら就職はどうするんだろう」と考えるようにもなり、追い詰められている感覚はありました。
Q:そこで技能試験から適性試験での受験に切り替えられました。
このまま技能で受けても、また同じ結果になるんじゃないかという思いがありました。もちろん悔しかったです。ずっと技能で受けるつもりで練習してきたので。
Q:いつ頃の決断だったのでしょうか。
本当にギリギリです。願書の締め切りの3日くらい前に師匠とも相談して「適性で受けよう」と決めました。
Q:適性試験で受けるためのトレーニングはしていなかったんですよね?
全くしていませんでした。そこから切り替えて1ヶ月ほどで、身体を大きくするためのウエイトトレーニングをして、しっかり食事を摂って、あとはワットバイクで数字を出すトレーニングばかりやっていました。
一次試験は免除だったので、一次試験の種目については実際には受けていません。二次試験のワットバイクでは、最初は6秒の測定の方が意外と伸びませんでした。逆に45秒の方は、最初からある程度の数字は出ていました。僕は技能試験を目指して約1年間自転車に乗っていた状態だったので、その部分で少しアドバンテージがあったと思います。最初の1年間、技能試験を目指して積み重ねた練習が、結果的には適性試験にも活きたのかなと思っています。
Q:2度目の挑戦で無事合格することができました。結果を見た瞬間は?
嬉しいというよりは、ホッとしたという気持ちの方が大きかったですね。その時は奈良競輪場で選手管理のアルバイトをしていて、結果は一人で確認しました。すぐ家族に連絡しました。家族みんながホッとした瞬間だったと思います

本気でプロを目指していたからこそのハングリー精神
Q:養成所に入り、独立リーグでの経験が活きていると感じることはありますか。
独立リーグは、学生野球とは少し違います。チームが勝つことも大事ですが、それ以上に「何人プロへ送り出せるか」という世界です。だからチームスポーツではありつつ、個々人が「自分がプロになる」気持ちで戦っていた場所でした。そういう意味では、養成所の雰囲気と近いものはあります。
養成所では入所したほとんどの人がプロの選手になります。一方で独立リーグは1年でプロへ行けるのは全体で2〜3人くらいです。そういう意味ではハングリー精神が強いと感じています。養成所でも「同期には負けたくない」という気持ちは最初から強かったですね。
Q:技術や身体の面ではどうでしょう。
僕は先発ではなくリリーフだったので、本当に1球で試合が決まるような場面も多くありました。その1球に集中する感覚は、競輪でスタートラインに立つ時の感覚とすごく似ていると感じる瞬間があります。集中力のつくり方は、野球で培ったものがそのまま活きていますね。
Q:競輪という競技そのものについて、全く違う競技から転向したからこそ感じる魅力はありますか。
競輪って、本当に特殊なスポーツだと思います。ラインを組んで仲間として戦うのに、最後は個人戦になる。普段の人間関係や信頼関係が、そのままレースに出るような感覚もあります。チームスポーツとも違いますし、完全な個人競技とも違う。だからこそ、人間くさい競技だなと感じています。
昨日まで敵だった選手が、今日は同じラインで走っていることもあります。野球で言えば、昨日まで相手チームの4番打者だった選手が、翌日には自分のチーム4四番を打っているようなものですから。
レースで役割をこなすことで、自分にもチャンスが巡ってくるなど、そういう積み重ねも含めて、競輪らしい魅力だと思います。

自分は何者かになれたかもしれない
Q:振り返った時、野球を辞めた決断は「正しかった」と思えますか。
まだ、正しかったとは思えていません。
辞めたこと自体を後悔しているわけありません。ただ「あの時、もう1年続けていたらどうなっていたんだろう」と思うことは今でもあります。
でも、それを未練のまま終わらせるのではなく、「競輪で結果を出そう」という力に変えられているのは、自分の中では前向きなことだと思っています。
Q:その思いが、今も挑戦を続ける原動力になっている?
やっぱり、ドラフトで指名されなかったことで、あの日「自分は何者かになれたかもしれない」という気持ちが今でもすごく強く残っています。
でも、「ドラフトにかからなくて良かった」と思えるようにするためには、ここから先の自分の結果次第だと思っています。競輪選手として成功できれば、あの時の経験も意味があったと思えるはずなので。そこが今の自分にとって1番大きな原動力ですね。
Q:デビュー後、どんな選手になりたいですか。
まだまだ、自分がどんな競輪選手になれるかは掴めていません。でも、初めて競輪場へ来たお客さんでも、1回見ただけで名前を覚えてもらえるような、そんな特徴のある選手になりたいと思っています。
野球の時は「速球といえば内海」と言われるような投手を目指していました。競輪でも、そう言ってもらえるような武器を持った選手になりたいです。

決して何でも一度でできるタイプではなかったからこそ、野球を続ける中で育まれたという反骨心。その気持ちは競技が変わった今も、内海候補生の根底にあります。独立リーグでプロ野球を目指した日々も、ドラフトで名前が呼ばれなかった悔しさも、タイムが伸びずに苦しんだ時間も、まだ答えの出ていない物語の途中です。
いつか「ドラフトにかからなくて良かった」と思える日をつくるために。内海皓太候補生は今、競輪選手という新たな「プロ」を目指して走り続けています。