大村涼兼選手「強くなりたいという気持ちが止まらない」独立リーグ出身者インタビュー企画 #2
NPB(日本プロ野球)を目指し、独立リーグで夢を追った選手たち。その中には、野球とはまったく異なる「競輪」という世界に、新たな可能性を見出した人たちがいます。
なぜ、野球から競輪へ飛び込んだのか。異なる競技でプロを目指すまでには、どんな時間があったのか。そして、野球に懸けた経験は、競輪選手として生きる現在にどうつながっているのか。
独立リーグから競輪の世界へ転身した選手・候補生を紹介する本シリーズ。第2回は、日本競輪選手養成所第129回生の大村涼兼選手です。
大村選手には候補生時代にも1度、養成所に合格するまでの道のりを伺いました。
師匠である福田知也選手(神奈川/88期)と過ごした時間、日本競輪選手養成所での日々、そしてプロとして走り始めた現在までを振り返ってもらいました。
4年間追い続けたNPBへの道

Q:大学卒業後は、独立リーグへ進んでいます。なぜ独立リーグだったのでしょうか?
NPB入りを目指すうえで、ルール上、社会人野球だと大学卒業後2年間はNPBに行けませんでした。独立リーグなら1年でドラフト対象になれました。
正直、NPBに行く実力は伴っていませんでしたが、1年でも早く挑戦できた方がいいと。独立リーグにはNPB出身の監督さんがいたり、NPBのチームとの練習試合がたくさんあったりする。そういう面から、自分は独立リーグに進みました。

茨城アストロプラネッツ時代の大村選手
Q:結果的に、独立リーグでは4年間プレーすることになりました。
早く区切りをつけられると思って独立リーグに行ったし、長くいる場所ではないと思っていました。ただ、試合でもずっと先発で起用されたり、元NPB選手の監督さんから「NPBに1番推している」と言っていただいたりしていました。1年1年が勝負だと思いながらも、シーズンが終わるたびに何か掴みかけた感覚もあって、辞めるという発想自体ありませんでした。
「自分の実力ではもう無理」と思うより、NPBに行きたい気持ちが強すぎて。戦力外、契約解除になるまでは野球でチャレンジしたいと思っていたら、4年経っていた感じですね。

Q:その4年目に引退を決めます。
最後の1年は怪我でほとんど投げられませんでした。年齢や家族のことも考えて、その年はシーズンに入る前から「今年で無理だったら辞めよう」と初めて思っていた年でした。そこに怪我も重なって、試合に出ることもできなくなった。ずっとリハビリを続けていて、モチベーションも上がらず、シーズンの途中に引退を決めました。
「何か心に刺さるものがあった」競輪への道

Q:野球を辞めた後、すぐに競輪を目指しましたか?
最初は独立リーグのスポンサーさんのところで働くなど転々としていました。
その時にも、知り合いのトレーナーの方から「せっかく鍛えた身体を何かに活かしたら」と言われてはいました。怪我と言っても野球ができなくなっただけで、身体自体は大きかったし問題なく動かせていました。
ただ、20年近く野球をやってきてNPBに入れていないのに、他競技に行ってすぐプロになれる、という発想もそもそもありませんでした。
Q:そこから競輪と出会います。
独立リーグ時代のセカンドキャリア研修で競輪選手になった人がいることは知っていました。野球を含めた他競技の出身でもトップで活躍している選手がいることも調べていました。
そこで兄が勧めてくれて、一緒に競輪を見に行きました。初めて見た時の迫力がすごくて。何か心にバチンとくるものがありました。自分は体力や気持ちでは人に負けないと思っていたので「やってみようかな」と。
Q:競輪選手になるために、まずはどんな行動をしましたか。
競輪について何も知らなかったし、身近に選手もいなくて、どうやって選手を目指すのかすら分かりませんでした。SNSで競輪関係者の方を見ている中で、当時神奈川支部の支部長をされていた對馬太陽さん(神奈川・85期/現在は現役引退)に「競輪選手になりたいんですけど、突然失礼します」といった内容でDMを送りました。
Q:珍しい入り口かもしれません。
どうしたら入れるのか本当に想像もつかなかったんです。愛好会やアマチュアグループがあることも全く知りませんでした。入門テストがあるのかな、くらいに思っていました。もしそういうものがあるなら、やる気があると思われた方がいいと思って、インパクトを残そうとDMしました。「いつ来られる?」と言われて「いつでも行けます」と答えたら、「じゃあ明日おいで」と言っていただいて。そこから川崎競輪場に通い始めました。
「1回帰って考えて」から5秒で下した決断

Q:初めて川崎競輪場へ行った時、何をしたのでしょうか?
他競技出身者は適性試験で受ける人が多いと伺って、まずワットバイクをやりました。適性試験の6秒と45秒の測定をして、現時点でどれくらいの数値が出るかを確かめようと。
でも、もう全然ダメで。基準に引っかかりもしない数値だったと思います。45秒に至っては、始まって8秒ぐらいで脚が動かなくなりました(笑)。
それを見て、今の師匠の福田さんから「本当にプロになるのは厳しいこと。年齢もあるし、何回受けても受からない人もいる中で、人生のことも含めて1回自分で考えて」と言われるほどでした。
Q:そこで1度持ち帰った?
5秒後には「やります」って(笑)。「競輪でプロになる」と心に決めて競輪場に行っていたので、ここで絶対受かるんだと。
すると、その場で福田さんが「分かった。じゃあ俺が見る」と言ってくれました。その時点で試験まで2ヶ月を切っていたので、本当に時間はありませんでした。
朝7時から夕方まで。「えげつない」と噂になった練習量

Q:最初に挑戦した適性試験は不合格となりました。
二次試験のワットバイクは師匠とも合格できると話していましたが、一次試験の垂直跳びの数値が足りていなかったんだと思います。
Q:1度不合格になった時に、諦めるという選択肢はありませんでしたか?
なかったですね。次の1年でもう1回勝負と決めていました。ただ「この1年で落ちたら辞める」ということは家族にも話していました。
試験に落ちた日、師匠に電話した時に「自転車に乗って、来年は技能で」と言われました。「どうしようか」と相談する感じはなく、その場ですぐに。1回適性で落ちているし、どのみち自転車には乗らないといけません。自分も早く乗りたいと考えていましたし、今回は時間もある。だから、すぐに「来年は技能でいこう」となりました。
Q:技能試験へ向けた練習は、かなりの量だったそうですね。
最初は自分の身体に合う自転車がなかったこともあって、ワットバイク、パワーマックス、ウエイトトレーニングが中心でした。あとはママチャリにタイヤを引きつけて、200mくらいをスタンディングで走って、Uターンして、シッティングで戻ってくる。それを20本とか(笑)。
Q:それだけでもかなりの練習ですが……。
自転車に乗り始めてからは、朝7時に行ってまず2時間、ワットバイクで230W・100回転をキープ。その後、ローラーで2時間ほど時速60kmをキープする。それを師匠と合流する前に、1人でやっていました。師匠と合流してからワットバイク、パワーマックス、ウエイト。ここまでが午前中。
午後は、1km→800m→400m→200m→400m→800m→1kmと距離を変えながら、3周のインターバル走を3セット。バンクが終わった後もローラーで、10秒もがいて50秒休憩する1分間のメニューを合計20分…そういう日が多かったです。
Q:毎日ですか?
毎日です。
Q:「やりすぎでは?」と思うことはなかったですか。
みんな同じくらいの練習をやっていると思ってました(笑)。養成所に合格してから他地区の子に自分の噂が流れていたと話を聞きました。「えげつない練習をやっているやつがいるぞ。お前らはまだ足りないぞ」って言われていたみたいです。
言われたことは全部100%やる

Q:師匠との練習について「なぜこれをやるんですか?」と聞くことは?
試験に合格するまでそういった会話はありませんでした。いろんなメニューを出されても、言われたことはとりあえず全部100%でやろうと。「これをやらないと、自転車のことは分からないんだ」と自分も思っていました。
Q:福田選手はどのくらい練習を見てくれていたのでしょう。
本当にマンツーマンで付きっきりで指導いただきました。ご自身が怪我をした時にもわざわざ競輪場へ足を運んでくれて……。
朝、自分がローラーを2時間乗るところからメーターをずっと見てくれました。師匠自身の練習が終わった後も、昼からは私服に着替えて、自分の練習の付き添い。また次の日にも、同じように。練習中も細かく指導いただきました。いろんなトレーニングをしている時も「これが自転車のこういう動きにつながる」といった話を全部していただいて。
本当に1年間びっちり、付き添いのトレーナーのように面倒を見ていただきました。そこまでしてもらっている以上、自分も「絶対に合格するんだ」と思いましたね。
Q:練習をやり切る力は、独立リーグで培ったものですか?
実は、もともと練習嫌いだったんです。大学や独立リーグでは全体練習もそこまで多くなくて、1週間に1回登板日に合わせて調整する感じでした。今振り返ると、自分を追い込めなかったから、実力も伸びず、NPBに行ける実力もつかなかったと感じています。
才能がある人でなければ、振り切ってやらないとNPBの世界には行けない。今振り返っても、「野球をやり切った」とは思わないですね。
Q:では、なぜ競輪ではできたのでしょう?
それはもう、師匠のおかげです。1人だったら絶対にあそこまで追い込めていません。師匠が付きっきりで見てくれて、朝から晩まで「これをして、次はこれをして」と全部指導してくれたからこそですね。
あとは、「ここで受からないと自分の人生は何も残せない」という気持ちもありました。年齢のこともあったし、NPBに行けなかったので、今度は悔いなくやり切ろうと。
実際に1年間、家と競輪場の往復しかしていません。遊びにも行っていないし、友達にも会っていない。次の日の練習ができなくなることが嫌だったんです。「昨日できたのに、今日はできない」と思われたくなくて、常に成長スピードをあげてレベルアップしたところを見せなければと感じていました。
養成所でも「その先」を見ていた

第1回記録会
Q:大量の練習の末、2回目の試験では合格となりました。その時の気持ちはいかがでしたか?
合格発表の日も練習していて、結果を見たのはみんなより1時間くらい後でした。師匠も「タイムが出ていて、これだけやっているんだから受かる」と思ってくれていました。2人の中では、受かることはある意味、当たり前になっていたんです。
その時にはもう養成所に入った後のことを考えていました。師匠からもずっと「合格がゴールじゃない」と言われていたので、合格が分かっても「おめでとう。じゃあ次は養成所に向けて成長していこう」といった感じでした。
Q:養成所に入る時は、どんなことを考えていましたか?
養成所に入ったら、実力も経験も間違いなく1番下だから、もっと練習しようと思っていました。
タイムは基準値を出せましたが、自転車競技経験者と比べたら経験は少ないし、何とか食らいついていかなきゃと思っていました。実際に、みんな強かったです。特に沢田桂太郎(大分/129期)は飛び抜けていました。

第1回トーナメント競走
でも、楽しいという気持ちの方が強かったですね。沢田も含め、いろんな人に質問し続けていました。「これどうしてるの?」「どういう感覚でこいでるの?」と、本当に何から何まで。上手くなりたいし、強くなりたくて、卒業する前までずっといろんなことを聞いていました。
自転車は未知のことが多くて、いろんなことを知りたいと感じました。乗り方やレースの進め方も含めて、引き出しをたくさん持ちたいと思えるようになりましたね。
デビューしても、優勝しても、「次にやるべきこと」

Q:実際に競輪選手としてデビューした時は、どんな気持ちでしたか?
野球の時は結構緊張したんですけど、競輪は「やってきたことを出すだけ」という印象が強くて、緊張は全くなかったです。状況を見て、ポイント一つひとつで、自分の力を全部出し切ろうと集中していました。
Q:「プロになった」という実感は?
あまりなかったです。プロアスリートになりたいと思って競輪選手を目指したものの、いざなってみると、次にやるべき課題が明確に浮き彫りになって……。「プロとして競輪場に立った」という感覚より、「次はこうしないといけない」と考えていました。
Q:ルーキーシリーズでは勝ち星を上げることができず、レース中の落車も経験しました。不安にはなりませんでしたか?
不安はなかったです。「自分が弱い」と素直に思って「練習しなきゃ」と。それだけでした。走り方や運の問題というより、単純に脚力がないと落とし込めたので、やるしかなかったですね。
Q:落車した時も、気持ちは落ちなかった?
次の開催まで1カ月弱くらい空いていたので。結果的に怪我も肋骨のひび程度だったので、まず「良かった、練習できる」と思いました(笑)。経験が浅い分、それまで練習でずっと積み重ねてきたものが、自転車に乗れない期間でなくなってしまいそうな感覚があり、その方が怖かったです。
Q:その後、8月の西武園での開催で優勝も経験しました。完全優勝でしたね。
実は、素直に喜べなかったんです。何度も映像を見返して「そんなに踏まなくても良かった」「こんなに脚を使っていた」と、レース自体は反省点ばかりで。もちろんうれしい気持ちはありますし、1回優勝できた安心はありました。ただ悔しさの方が圧倒的に強かったですね。
Q:周囲の反応はいかがでしたか?
家族やいろんな人が喜んでくれました。独立リーグ時代のファンだった方や、昔の指導者の方など、いろんな方から連絡をいただきました。競輪選手になったことを公表していたわけでもなく、積極的に発信していなかったので「みんな知ってくれているんだ」と。
一緒に普段から練習してくれる川崎の先輩方も喜んでくれましたし、師匠の福田さんも前検日のコメントで「弟子が優勝したのがうれしかった」と書いてくれているのを見たんです。それが、優勝そのものよりうれしかった。グッときました。少しだけ恩を返せた気持ちですね。
すべての源泉は「強くなりたい」という想いから

Q:「強くなりたい」というのがモチベーションになっているんですね。
全部そこに尽きます。1日1日、「強くなるために何をすればいいんだろう」と考えています。練習でタイムが出なかったり、ちぎられたりすると気分が落ちる時もあります。そういう日は、みんなが帰った後にワットバイクをやったりもします。根っからの負けず嫌いだと思います。

卒業記念レース
同期の中では1番強い存在でありたいです。養成所では教えてもらうことが多い仲間でしたが、今はもうライバルです。自分より先に優勝する人がいたら本当に悔しい。純粋に「1番強くなりたい」と思っています。
Q:競輪は、課題が明確なのも合っているのかもしれませんね。
大村:野球と違って、競輪は課題が出た時に「練習する」という解決法がすごく明確だと思います。「それをやらないと強くならない」というのが分かりやすい。野球は肩や肘の消耗も大きく、投げたくても投げられない時もありますし。走り込んだとして、野球にどうつながるか分からないこともある。

でも自転車は、乗っていれば何かにつながる、何か得られる。でも、みんなに「まだ乗ってるの?」と見られるのも嫌で、みんなが帰ってからやったりします(笑)。野球をやっていた頃と比べて、強さに貪欲になりましたね。
Q:その根底にあるのはやはり師匠との1年間のトレーニングでしょうか。
あの1年がなかったら、自転車に対する向上心も絶対に生まれていなかったと思います。適性試験で入っていたら、自転車経験が少ないことをうまくいかない理由に結びつけてしまうこともあると思います。自分は技能で1年間しっかりやって、たくさんの人が受ける中で合格できた。それは本当に自信につながりました。
自転車を始める前はやり切ったものがなかったので、自信がなかったんだと思います。何をするにも「負けたらどうしよう」と勝手に思っていた。でも今は、不安にならなくなった。これは、師匠との1年間の積み重ねのおかげです。自分でメンタルコントロールしようとしたわけではなく、やってきたことがあるから勝手にそう思えるようになったんだと思います。
「大村涼兼といえば、先行」

養成所在籍時から「先行」のレースを貫く
Q:競輪選手として、これからどこを目指していきますか?
まず、しっかりS級に1日でも早く上がること。そのためにすべての成長スピードを上げていくという課題は明確にあるので、今はそこに取り組んでいます。
今、僕の練習グループはS級の方ばかりです。その中で、一緒に練習している人たちや師匠の前で記念や特別競輪を、先行選手として走りたい。そこがゴールではないですけど、まず自分の中で何が何でも達成したいものです。

競争訓練での最終周回でホームを先頭で通過した回数は候補生全体でトップ
Q:「大村涼兼といえば○○」と言われるなら?
先行です。そこはもう、ぶれないものがあります。どこまで通用するのか、行き切りたいですね。レースを見ていても先行で活躍している人ばかり見てしまうし、自分は先行が好きなんだと思います。先行で勝った時が1番うれしい。年齢もありますし、脚力もまだまだですけど、先行で行けるところまで行きたいと思っています。
Q:1度NPB入りという夢を諦めて飛び込んだ競輪の世界。今は楽しいですか?
「強くなりたい」という気持ちを常に持たせてくれる競輪のおかげで、楽しいです。幸せです!

NPB入りを目指した独立リーグ時代を経て、まったく経験のなかった競輪の世界に飛び込んだ大村選手に芽生えたのは「もっと強くなりたい」という向上心でした。
その根底にあるのは師匠の福田知也選手と朝から晩まで練習を重ねた時間。自分自身を追い込み、努力を積み重ねることの意味を知ったことが、大村選手の競技人生を大きく変えました。
師匠と積み重ねた時間を自信に変えながら、大村選手はこれからも「強さ」を追い続けます。