尾野翔一選手「根拠がなくとも信じ抜く」独立リーグ出身者インタビュー企画 #3
NPB(日本プロ野球)を目指し、独立リーグで夢を追った選手たち。その中には、野球とはまったく異なる「競輪」という世界に、新たな可能性を見出した人たちがいます。
なぜ、野球から競輪へ飛び込んだのか。異なる競技でプロを目指すまでには、どんな時間があったのか。そして、野球に懸けた経験は、競輪選手として生きる現在にどうつながっているのか。
独立リーグから競輪の世界へ転身した選手・候補生を紹介する本シリーズ。第3回に登場するのは、日本競輪選手養成所第127回生の尾野翔一選手です。
独立リーグでプレーした後、24歳でまったく経験のなかった自転車の世界へ飛び込んだ尾野選手。
競輪選手を目指した理由を聞けば、「お金」と「かっこよさ」という、驚くほど率直な言葉が返ってきます。そのシンプルな動機から始まった挑戦ですが、養成所合格までに積み重ねた練習量は圧倒的。そして養成所では在所成績1位で卒業。現在は競輪選手としてレースを走りながら、ナショナルチームの一員としてトラック競技にも取り組んでいます。
野球から競輪、そしてトラック競技の世界へ。尾野選手のこれまでを振り返ってもらいました。

Q:まず、野球を始めたきっかけから教えてください。
小学校3年生の時に仲が良かった友達が野球をしていて誘われたのがきっかけですね。
Q:プロ野球選手になりたいという夢はいつ頃持ちましたか?
最初からです。野球を始める時、お母さんに「プロ野球選手になる」って言ったんです。そしたら「そんな簡単になれると思うな。甘い世界じゃない」と怒られて(笑)。「ちゃんとやるから、習わせて」と言って始めました。
Q:最初から真剣に取り組む形になったんですね。
楽しくやるのはもちろんですけど、趣味というより本気で始めました。高校は甲子園を目指して山口県の早鞆高校、卒業後はアスリート教育の専門学校に進学しました。すぐに試合に出られて、NPB出身の指導者がいたり、強い実業団チームとも公式戦で戦えたりしたので、レベルアップできると考えていました。
Q:専門学校卒業後、独立リーグへ進んだのはなぜですか?
専門学校からNPBに行くのはなかなか難しく、自分の中では強い実業団チームか独立リーグに行くかの2択でした。当時の監督が高知ファイティングドッグスに縁があり、チームがちょうど右打者の外野手を求めていたこともあり、そのまま入団しました。

高知ファイティングドッグス時代の尾野選手
足の速さと肩の強さなら、今のNPBのトップクラスの選手と遜色なかったと思います。肩なんて、1番強いくらいだと。ただ、バッティングが良くなかった。本当にそこだけという感覚でした。
Q:独立リーグ時代はどのような生活を送っていましたか?
シーズンが始まればNPBと同じようにほぼ毎日試合が続きます。シーズンも終盤に差し掛かると、自分にドラフトで声がかかるかどうかは分かってくるので、そうなるとチームの優勝のために頑張るといった気持ちで取り組んでいました。
一方で独立リーグは収入面では決して恵まれた環境ではありません。所属していた高知ファイティングドッグスは歴史のあるチームでしたし、ファンの方から差し入れをいただいたりして、それで何とか生活していました。でも、なかなか貧乏だったと思います。
「本気でNPBを目指していたか?」

Q:高知、北九州と3シーズン、独立リーグでプレーされました。引退を決断したタイミングはいつでしたか?
北九州下関フェニックスで自由契約になって、他のチームに行くことも考えました。ただ、その時に「この1年間、本当にNPBに入れると思って野球をやっていたか?」と考えたら、そうでもないなと思いました。

最後の1年は地元でもある北九州下関フェニックスでプレー
Q:モチベーションに変化があったんですね。
高知から北九州に移籍した時は、北九州にチームができたタイミングだったのもあり、地元で野球をやりたいという気持ちの方が強かったかもしれません。野球自体は楽しかったし、良い経験ができました。
でも、辞めるタイミングを見失って、ある程度のレベルで野球を続けているだけなんじゃないかと。正直に「このままだと未来はない」と思って。だったら次はやりたいことをやろうと。
Q:野球を辞めることに、寂しさはありませんでしたか?
「よっしゃー」って感じでした(笑)。結局考えれば考えるほど、野球を始めてから「中途半端で辞めるのが嫌だ」と続けてきましたが、野球を辞めたことで「よし、他のことができる」とワクワクしていました。
どちらかというと家族を含めて周りの方がショックを受けていましたね。自分はスパッと「次いくぞ!」って気持ちでした。

Q:野球を辞めた後の選択肢は「競輪」か「格闘技」への転向を考えたそうですね。
スポーツ以外で職に就こうと思ったことがなくて……何か戦う世界じゃないと頑張れないんです(笑)。格闘技は元々好きで、競輪は小学校の頃からいろんな人に「向いている」と言われていました。野球選手で脚が速い選手は細い体型の人も多いんですが、自分はごつくて速い、パワフルなタイプだったので。
Q:それでも最初は格闘技と迷ったんですね。
単純ですけど、スター性やかっこよさって大事だったんです。当時は自転車にかっこいいというイメージがなくて。一方で、競輪が“稼げる職業”なのは知っていました。格闘技は強いだけじゃダメで、スポンサーや人気も必要だし、本当にトップ層へ行かないと稼げません。
職業としては、競輪選手の方が良いというのは分かっていたけど、それでも当時は“格闘技寄り”でしたね。
Q:そこから競輪を選んだ決め手は何だったのでしょうか。
漫画の『弱虫ペダル』です(笑)。舞台はロードですけど、登場するキャラクターが好きで自転車もかっこいいと思って。「じゃあ競輪選手になろう」と。
Q:その時には競輪は見ていたんでしょうか。
競輪選手になると決めた時に見た気はしますが……競輪場で生で競輪を見て感動したとかではなくて(笑)。『弱虫ペダル』を見て、「自転車乗りたい」、「自転車で稼げる」、「競輪やろう」という感じでした。
Q:すごい決断力ですね。野球を辞めてからすぐ切り替えたのでしょうか。
辞めてから1ヶ月くらいですかね。やると決めてからは一瞬でした。10月頃に自由契約になって、野球を辞めると決めたのは12月頃だったと思います。競輪選手になると決めた時、年明けから始めようと思って、ジムで知り合っていた今の師匠に相談する機会を作ってもらいました。
普通ならできないことも、未来を信じてやり切る

Q:アマチュア時代は、どんな生活でしたか?
朝5時から夕方5時まで練習して、6時から夜11時までバイトです。居酒屋でずっとバイトしていました。10ヶ月間、練習とバイト以外はほぼ何もしていない。休んだのは、練習しすぎて首の骨がずれた時くらいです。
Q:自転車未経験から合格に向けてどんなトレーニングを積んだのでしょうか。
ママチャリぐらいしか乗ったことがなかったので、最初は師匠が用意してくれた自転車に乗り、パワーマックスやローラーを使った練習を1日中。1ヶ月経たないくらいで「そろそろバンクに乗ろうか」と本格的に自転車の練習に入りました。
1番追い込んでいた時期にやっていたのが、平尾台という山を固定ギアの自転車で登り切るものでした。S級やプロの選手でも1本で脚が結構パンパンになる。2本行けばとても頑張ったと言われ、アマチュアが3本登ると午前中が終わる。その練習を自分は11本行きました(笑)。
Q:それは……できるものなんでしょうか。
普通はできないんじゃないですか(笑)。師匠から「10本行った人がいるから11本行ってこい」とノリで言われて。根性試しだったと思いますが、きつかったですね。
もう一つは、1時間のローラーをこなした後、走路を200周するんですけど、10周するたびに1kmを全力でもがくんです。200周する間に1km全力スプリントを20本。それを午前中はずっと。午後にはパワーマックスを使ってさらに追い込んで……それが終わってからバイトに向かっていました。

Q:かなり過酷な生活だと思いますが、モチベーションは続きましたか?
無敵状態でした(笑)。麻痺して、ハイになるんですよ。今やれと言われたら絶対無理です。でも、その時は「この1年頑張ったら養成所に入って、プロになれる」と思っていたので。そのために必要ならできました。
Q:当時の原動力は何だったのでしょうか?
練習で人より追い込めば、周りの人たちからも「強いぞ」と言ってもらえるのが気持ち良くて。あと、現実的な話では、やっぱりお金ですね。「この1本、サボりたいな」と思っても、ここで脚がちぎれるくらい回したら将来の生活につながると思って。
独立リーグの時は本当に貧乏だったので、そのギャップも大きかったです。10ヶ月、本当に死ぬ気でやって養成所に受かれば良い暮らしができると、冗談抜きで考えていました(笑)。
「どっちでも受かる」。根拠より先にあった自信

Q:養成所は技能と適性のどちらで受けるか、いつ決めましたか?
最初に師匠に相談しました。この話をすると「ナメてる」とよく言われるんですが……「どっちでも受かると思いますけど、どっちがいいですかね」って(笑)。
養成所へ入ったらどのみち自転車に乗りますし、試験まで時間もあったので技能で受けた方が後々良いと言われて、技能で決めました。
Q:未経験からのスタートで「どっちでも受かる」と思えたのはなぜでしょう?
分かるんです、得意なことは。「まぁ受かるでしょう」って。ある意味、根拠はない自信です。
Q:練習を始めてから実際にタイムはどうでしたか?
3ヶ月くらいで合格ラインのタイムが出ました。そこからもずっと右肩上がりだったので、タイムに対する不安はなかったです。不安だったのは二次試験の学科くらいでした。
Q:では合格発表の時も自信はあった。
合格発表を見た時に、画面の表示の関係で自分の番号が見えなかったんですよ。でも「自分が落ちたら誰が受かるんだ」くらいの感覚だったので。画面を動かしたらちゃんと番号がありました(笑)。
Q:そういう自信は、野球をやっていた時からありましたか?
打席に立った時に「俺は絶対打てる」と思ったことはないです。ただバックホームとか、ピンチの守備では「俺のところに飛んでこい」とめちゃくちゃ思っていました。そこでしか自分を見せられないので。自分が得意だと思っていることに対しては、めちゃくちゃポジティブなんです。
「負ける方が珍しい」。養成所で確信に変わる自信

Q:養成所に入って最初、自分はどのあたりの位置にいると思いましたか?
6番目くらいですかね。未経験組の中では頭一つ抜けている感覚はありました。上にいるのは競技経験者。でも、技術を身につけて経験を積めば追いつけると思っていました。
Q:ゴールデンキャップを多数輩出した127期の中で、最終的には在所成績1位になりました。養成所でも、自信にあふれていましたか?
そうですね。勝てるというか、負ける方が珍しい。負けたらすごい、といった感覚でした。
Q:自転車未経験から競技経験者を追い抜くほど成長できたのは、何がきっかけだったのでしょう。
単純な話ですけど、自分の身体に対してフレームがありえないほど小さかったんですよ。最初に乗り始めた時から師匠のフレームを使っていて、自分の中では何も違和感はなかったし、タイムも出ていたので誰も指摘してくれなくて(笑)。養成所に入ったらみんなに「フレーム小さくない?」って。身体のサイズに合うものに変えたら一気にタイムが上がって……。

第一回記録会の尾野選手。この時は身体を縮めて自転車に乗っていたという。
Q:一気に強くなった?
無双状態に入りました(笑)。とはいえ、アマチュアの時にすごい量を乗り込んできたからこそ、一気に伸びた感覚ですね。もともとダッシュ力には自信があって、アマチュア時代に地脚をとことん鍛えてきたので。
養成所の練習本数はアマチュア時代と比べると少なくて、みんなは「きつい」と言っていましたけど、自分からしたら天国だと(笑)。そこで瞬発力も活かせるようになって一気に強くなりました。
思いもしなかった、ナショナルチームへの道

Q:養成所在籍中には、自転車トラック競技のナショナルチームにもつながるHPD※にも参加します。ただ、最初は競技に興味がなかったそうですね。
※ハイパフォーマンスディビジョン:選手候補生のうち世界で活躍できる素質がある選手を選抜し、ナショナルチーム選手と同様の環境でトレーニングを行い、将来国際大会で活躍する選手の強化育成と発掘を行うトレーニンググループ。
全然なかったです。そもそもお金を稼ぎたいと思って競輪選手を目指し始めたので、競技をやったら競輪に出られないし、稼げないって。競技自体も知らなかったですし、「競輪選手を目指して養成所に来たので、大丈夫です」って最初は断りました。
Q:それでも参加することになった理由はなんでしょう?
当時の滝澤正光前所長から、「競輪選手としても絶対に活きるし、勉強になる。ナショナルに入るかどうかは別として、強い選手たちと練習した方が自分のためになる。人生の引き出しになるから行った方がいい」と言われて。
その後ナショナルチームに残るとは決まっていなかったので、納得して参加しました。
Q:そこから「競技もやりたい」に変わりましたか?
すでにナショナルチームに参加していた同期の市田龍生都や三神遼矢と同じ舞台でやり合いたいというのもありました。あとは、いざ競技に取り組み始めたら、太田海也選手とか中野慎詞選手のレースも見るじゃないですか。「自分もあれをやっていたら、かっこいいな」と思って、競技も頑張りたいと思えました。

2025年全日本選手権
Q:卒業後はナショナルチームで本格的に活動しています。初めてトップ選手たちと練習した時の印象は?
自分より脚力のある人たちと練習できる環境は、他では味わえないですよね。パワーメーターでワットや回転数とか走りが全て数字で出るので。自転車に力を伝える技術に差を感じますね。
Q:ナショナルチームの練習量を少ないと感じたそうですね。
養成所よりも練習の本数が少なくて「これでいいの?」って最初は思いました。ただ、振り返れば最初は100%以上を出し切れていなかった。限界を超えていないから、物足りなさを感じたんだと思います。最近は練習が終わったら、ちゃんと身体がしんどくなるので(笑)。1本1本踏み切れているんだと思います。
「今は、我慢の時期」競技と競輪、その先を見据えて

Q:競輪選手とナショナルチームを並行する生活で、1番大変なのは?
基本的にナショナルチームでの練習が生活の中心になります。なので、競輪が開催される場所にもよりますが、開催が終了したらすぐ移動して、翌日には練習に合流します。
競輪が終わった次の日に朝一からウエイトトレーニングということもあります。身体のコンディションを整える時間もないし、リカバリーする時間もありません。そこは大変ですね。
Q:どちらかに専念した方が強くなれるのでは、と考えることはありますか?
トラック競技の練習が競輪に100%活かせるかと言ったら、そんなことはないです。もちろん活きる部分もありますけどね。
今はカーボンの自転車でしっかり練習しているので、その分、鉄の自転車を扱う競輪は伸ばせていない感覚はあります。そこは、我慢の時期だと思っています。いずれナショナルを引退する時が来た時に、得たものを競輪に活かせれば、溜め込んでいた分がポンと出ると思っています。

Q:競輪と競技のどちらも取り組む難しさですね。
でも、それは結局言い訳なんですよ。例えば太田海也選手だって、競技に専念する一方で、競輪でも強いじゃないですか。確かに、競技をやることで競輪が伸びにくい部分はあるかもしれない。でも、競技でしっかり強くなれば、競輪も強くなるはず。だから今は、競技で結果を出せるように頑張っています。
Q:競輪と競技のそれぞれで今の目標を聞かせてください。
競技のスプリントは対人の駆け引きなどはまだまだですね。まずはハロンのタイムをしっかり縮めていこうと。出せば出すほどいいと思うので、今はそこにフォーカスしています。ケイリンは、自分の脚質にバチッとはまった時は、2周先行でも勝負できる感覚があります。まずは国内のジャパントラックカップや全日本選手権のケイリンで金メダルを取りたいですね。世界を目指すにもまずはそこからだと思います。
競輪は、最近ちょっと停滞していて……S級への特別昇級も何回か失敗しています。落車だったり、インフルエンザだったり、肺炎だったり、いろいろと重なった時期もありました。でも、今は少しずつコンディションも整ってきているので、調子の良いタイミングで次は9連勝して特別昇級を決めたいです。
「競輪選手になる」と腹を決める

Q:ご自身の経験から独立リーグからのセカンドキャリアとして競輪という道を勧めますか?
独立リーグを辞めた後に「今からサッカー選手になってください」と言われても現実的には無理じゃないですか。競輪選手は受験回数の上限があるとはいえ、何歳からでも努力次第でなることができる。野球で鍛えた身体で24歳、25歳くらいからでも目指せるところが1番のメリットだと思います。
野球を真剣にしていた人なら、理不尽とも言える練習量に耐えてきた人も多い。特に独立リーグの選手はみんなハングリー精神があると思います。そのハングリー精神を、燃やし続ければいいと思います。「競輪選手になる」と腹を決めて練習すれば、大丈夫です。
Q:「腹を決める」というのが大事?
競輪選手になりたいなら、競輪を始めた瞬間から試験に受かるまでは、本当に競輪のこと以外を考えない方がいいと思います。自分は10ヶ月の間、練習とバイト以外は何もしてなかったです。
独立リーグまで行っている人なら、身体能力のポテンシャルもあると思います。絶対なれるとは言い切れないですけど可能性としてはかなり高いので。何回も受けるより、本当に1年で受かるつもりで集中してやった方がいいと思います。
Q:野球を辞めたという決断について、今はどう思っていますか?
正しいどころか、もっと早く辞めたら良かったと思っています(笑)。
だから、自分がこうやって発信したいんですよ。独立リーグで野球をやっている人が「本当に今、NPBを目指しているのか?」って自分に聞いた時に、少しでも引っかかるものがあるなら「競輪という世界があるよ」ということを伝えていきたいですね。

「自分ならできる」。競輪選手を目指した時から、尾野選手の中にはいつもその自信がありました。最初は「根拠のない自信」だったものも、誰よりも練習を重ね、養成所で在所成績1位となり、競輪選手、そしてナショナルチームの一員となる中で、その自信は確かなものへと変わっていきました。
すべては自分の可能性を信じて踏み出した結果です。
競輪でも、トラック競技でも、まだ目指す場所はその先にあります。これまでと同じように自分を信じ、やると決めたことをやり切る。尾野選手は、これからもその姿勢を貫きながら、新たな結果をつかみにいきます。