プロ野球戦力外からのリスタート。松谷秀幸選手インタビュー「あのとき味わった恐怖心が原点」 前編
2008年に競輪選手としてデビュー、2011年にS級に昇級後長く一線で活躍し続け、2024年『全日本選抜競輪』では初のG1レース決勝進出を果たした松谷秀幸選手。
競輪選手となる前は、沖縄の強豪高校でエースとして活躍し、ドラフト3位で東京ヤクルトスワローズに入団を果たすという“野球エリート”としてキャリアを積み上げてきました。
怪我もあり2006年に野球選手を引退した松谷選手は、どのように競輪の世界へとたどり着いたのか。
そして、“キャリアチェンジ”を成功させるために必要なものとは。
前後編でお届けするインタビューの前編です。
野球選手時代の自分はぬるかった
Q:小さい頃からプロ野球選手になることが夢だったのでしょうか?
いえ、小学校の時は運動はなにもやっていなかったです。中学でも途中まで帰宅部だったのですが、校庭でやってる野球部を見て面白そうだなと思って入部しました。
スポーツテストでソフトボール投げの数値が、少年野球やってる子より良かったんですよね。それで、意外に投げられるかもなって(笑)。
中2で転校したんですけど、その転校した先が野球がすごく強い学校で。沖縄の興南高校に特待生で入れてもらいました。
Q:高校から沖縄で寮生活ですか。
母子家庭だったので、経済的な事情もあり特待生じゃないと行けなかったんですよね。特待生で入れてもらえたのが興南高校だったという形で、「どうしても沖縄で野球を!」というわけではなかったんです(笑)。
Q:興南高校時代は2年生からエースとして活躍し、ドラフト3位でプロ野球のヤクルトスワローズ(現・東京ヤクルトスワローズ)に入団。すごく順風満帆な野球人生に見えます。
高校卒業する時に、社会人野球からのオファーももらっていたのですが、運良くドラフトにかかってしまって(笑)。ただ、最初に1軍キャンプに呼んでもらった時に、「すごいところに来てしまった。こんなところではやっていけない」と思いました。
最初の頃にブルペンに入った時、石井一久さんと五十嵐亮太さんっていう、のちにメジャーリーグでも活躍する投手の間で投げることになったんです。2人の投げる球を見て、「この先、やっていけるのかな」って。そういう考えになってしまう時点で、野球でご飯を食べていくんだという覚悟が足りなかったのかもしれないですね。プロ野球選手になったことで、満足してしまったんだと思います。一言で言えば、ぬるかったです(笑)。
戦力外、そしてバイト生活
Q:その後はケガもあり、2006年には戦力外となりました。
その時には結婚して、子供が2人いる状態でした。球団の紹介で、翌2007年の4月からヤクルトの販売営業の仕事をすることが決まったのですが、それまでの間は高速道路で誘導のバイトをしたり、道路工事の現場でバイトをしていました。
Q:他の球団とか指導者という道は考えなかった?
通用しないと感じていたので、野球を続けるという考えはなかったですね。いい時もありましたが、「レベルが違うな」というのは常に感じていました。
Q:特にプロ野球においては、引退後に球団の親会社・系列会社などでセカンドキャリアを築く、というのは比較的よく聞く話ですよね。
そうですね。自分もありがたいことにそういう仕事を始められて。
社会をいちから勉強しながらでしたが、どこか物足りない感覚はあり、「これをずっと続けていくのかな、もう1回勝負できるものはないかな」ということは常に考えていました。
朝5時に電車に乗って出社して、夜遅くに帰ってきての繰り返しの生活。安定はしているかもしれないけれど、収入の面でも当然選手時代から落ちていましたし。
「なにをやってるんだおれは」
Q:その物足りなさというのは、アスリートとしてヒリヒリするような現場にいたい、ということでしょうか?
それもありますが、自分の場合は野球ですぐに挫折してしまったことが大きいかなと思います。頑張ってやり切って辞めたというよりは、どこか逃げてしまったような負い目があったんです。
Q:そこからどのように競輪の世界を目指すことに?
通勤の電車の広告で、養成所入所の年齢制限撤廃(*)っていう広告を目にしたことがひとつのきっかけですね。
野球の現役時代から、雨の日はパワーマックスの練習もしていたので、もしかしたら自分にもできるかもしれないと。
※93期募集(2006年入所)のタイミングで、それまでの満24歳未満という年齢制限が撤廃された。
Q:その広告を見て、すぐに行動に移った?
いえ、最初に広告を目にしてから、少しずつ気持ちが大きくなっていったような感じですね。
Q:そこから実際に勝負しよう、と思えたのは、なにか特別な要因があったのでしょうか?
妻や妻のお父さんにも相談したら、「勝負してみたら?」って言ってもらえたこと、それから、先ほどお話した高速道路での誘導のバイトの経験が大きかったです。
あのバイトって、すごくキツいんですよ。車が近くをすごいスピードでビュンビュン走るし、冬だったので寒さで指の感覚もなくなってしまうような環境で。トラックの運転席で休憩していた時に、一緒に仕事をしていたおじさんに、「兄ちゃん若いのに大変だな」って声をかけられたんです。その時に、「なにをやってるんだおれは」って思ったのを強く覚えています。
あんなに恵まれた環境で野球ができていたのに、頑張れなかった自分はなんなんだって。思い返すと、あの言葉をかけられた瞬間から、「どこかでもういちど勝負したい」と思っていました。その勝負する場所を、養成所の年齢制限撤廃の広告で見つけられた、という感じですね。
仕事を続けながらトレーニング
Q:なるほど。ご家族からの理解もいただいて、まず始めたのはトレーニングですか?
いえ、まず願書を出しました(笑)。そこから、今の師匠である佐々木龍也さんを紹介してもらって。佐々木さんに「願書はもう出しました」って言ったら、「あと2か月しかないじゃねえか!」って(笑)。
「やれることをやろう」って言ってもらえたんですけど、仕事は辞めるなとも言われたので、仕事終わってから佐々木さんの家に行ってトレーニングして、また仕事行って、という生活でした。その時は本当に大変でしたね。
Q:トレーニングはどういうことを?
適性試験での受験だったので、ひたすらパワーマックスのトレーニングですね。佐々木さんにはフォームとかを見てもらって、どうすれば力を伝えられるのかなどを教えてもらいました。佐々木さんも、ほかの選手からいろいろ情報を聞いてくれたみたいで、親身に指導していただきました。ありがたかったですね。
Q:すぐに師匠を紹介してもらえたというのは大きいですね。
当時横浜ベイスターズでコーチをしていた野村弘樹元投手に紹介してもらいました。
フィジカルトレーニングのコーチを通じて、競輪選手を紹介してもらえたりということもあったので、そこはプロ野球選手としてやっていたメリットだなと思いましたね。
Q:養成所に入るとなるとしばらく収入がなくなると思いますが、そのあたりの対応は?
それまでの蓄えと、妻にも働いてもらってギリギリ、という感じでした。でも、やっぱり厳しかったですね。
師匠からも、「今年しか見ないからな」とは言われていましたが、働きながらトレーニングをするのもかなり大変だったので、もし試験に落ちてもう1年ってなったらできなかったかもしれない。本当に受かって良かったです。
Q:無事に1回目の試験で合格となりました。
試験を終えた時は、受かったという手応えは1ミリもなかったですね(笑)。本当に嬉しかったです。
実際に入所した時は、ヤクルトに入団したときと同じような衝撃を受けました。同期には深谷(知広)とか雨谷(一樹)とか守澤(太志)とかがいて、自転車をずっとやってきた子達の凄さを目のあたりにして、「これはまずい、またすぐクビになってしまう」と。プロ野球に入った時のことがよぎりました。
ていました。
入所した直後に再び味わった衝撃。
そこからデビューに至るまでのモチベーションとなった想いとは。
後編は、近日公開予定です。