「競輪選手は天職」ビーチバレーから転身を選んだワケ 尾崎睦選手インタビュー 前編

2015年に競輪選手としてデビュー、通算400勝を達成したほか、ガールズケイリンの最高峰『ガールズグランプリ』に4度出場するなど、トップ選手として活躍を続ける尾崎睦選手(108期)。
競輪選手になる前は、ビーチバレー選手として『全日本ビーチバレー女子選手権大会』の優勝や、年間成績を競う『JBVツアーランキング』のトップを獲得するなど、華々しい成績を残してきました。
競輪選手として「人生を変えた」尾崎選手に話を伺うロングインタビューの前編です。

オリンピックを目指して始めたバレーボール
Q:高校時代はビーチバレーではなく、普通のバレーボールをやっていたそうですね。
小さい頃から「いつかオリンピックに出たい」という夢があったんです。オリンピックの表彰台でメダルをもらってる選手をテレビで見て、自分もこんなふうに輝きたいなって。母がバレーボールが好きで、一緒にテレビを見ていたのがきっかけとなり、バレーボールを始めました。
そこから、高校3年のときにビーチバレーを少しやらせてもらって、海がもともと好きだったこともあり、すごく楽しかったんです。それで、大学ではビーチバレーができる環境を選びました。

Q:大学ではビーチバレーに専念し、卒業後はプロの道(湘南ベルマーレスポーツクラブ)へ進まれました。
卒業後も、オリンピックを目指して続けていくことに決めました。でも、当時のビーチバレー界では、スポンサーを見つけるのが難しく、夜はアルバイトをしながら昼は練習する生活でした。
Q:国内トップクラスの成績を残していても、厳しい環境だったのですね。
自分がやっていた当時は、そういう選手が多かったと思います。ただ、ビーチバレーが好きでしたし、楽しかった。オリンピックに出て輝きたい、ということだけを考えてやっていたので、苦しくはありましたが疑問には思っていなかったです。

こんな競技、他にはない!
Q:そんな中で、競輪との出会いはどのようなものだったのでしょうか?
ビーチバレーでペアを組んでいたこともある金田洋世選手(106期/2017年引退)が、競輪選手に転向したことです。そこで初めて、「競輪ってどんな競技なんだろう?」と興味を持ちました。
金田さんが養成所に合格した後、入所する前のトレーニングで一緒にワットバイクの練習をやらせてもらっていたんです。そこでトレーナーさんから、「この数値なら養成所に受かるよ」「きっと活躍できるよ」って声をかけられて、興味を持って競輪選手について調べ始めました。

Q:もともと、トレーニングでワットバイクを使っていたんですか?
いえ、トレーナーさんからは「これがビーチバレーにも活きる」と言われてその時に乗ったのですが、今考えると、私が競輪選手への転向することも考えて、やらせてくれていたんだと思います。結果的には、そのトレーナーさんの思惑通りというか……そのおかげで今がありますね(笑)。
Q:競輪というものを調べていくなかで、次第に競輪選手になる決意が固まっていったのですか?
受験する決め手となったのは、ガールズグランプリの優勝賞金が1000万円もあると知ったこと。自分は体を動かして生きていきたい、と思っていたなかで、「こんな競技、ほかにはない」と思いました。グランプリ以外にも、○○のレースで優勝したら賞金がいくら、と明確な数字が出ていて、すごくわかりやすい世界だなと感じましたね。

2024年のガールズグランプリは、優勝賞金1400万円以上に(優勝:石井寛子選手)
競輪という競技は天職
Q:球技でチームスポーツであるバレーボールと、個人競技である競輪。スポーツとしては大きな違いがあると思います。
じつはビーチバレーに転向した理由のひとつが、6人制のバレーボールよりも2人制のビーチバレーのほうが、自分の力がより反映されるからだったんです(笑)。そういう意味では、競輪という競技は天職だなと思いましたね。
あと自転車は、自分が頑張った分だけ成果が出る、自分の頑張りが目に見えてわかる、というところにも惹かれました。自分が努力した分だけタイムがどんどん縮まっていくというのがわかりやすいなと思いました。

Q:28歳での競技転向に、不安はありませんでしたか?
自分と同じ年齢である金田さんが道を作ってくれていたので不安はなかったです。プロとして活躍している選手の中には自分より年上の方も多かったので、それも自信になりました。先輩方には感謝しています。
午前は自転車、午後はビーチバレー
Q:そこからは、どのように競輪選手になるための準備を進めていったのでしょうか?
養成所の受験を決めたのは2013年の5月だったのですが、その時はビーチバレーのシーズン真っ只中でした。10月くらいまで大会が控えているなか、スポンサーさんにもついていただいていたので、そのシーズンはしっかりとやり切りたい、恩返しも込めて年間チャンピオンになりたい、と思っていました。なので、午前中は自転車の練習、午後はビーチバレーの練習という生活で……とにかく時間が足りなかったですし、家に帰る頃にはヘロヘロでしたね(笑)。

Q:自転車に乗っての走行練習も積んでいたんですね。
その時には師匠にもついていただいていたのですが、師匠から適性でも技能でも受けられるようにしたほうがいい、とアドバイスをもらっていました。
Q:最終的に適性試験で受験した理由は?
適性・二次試験のワットバイクについてはある程度数値が出せていたのですが、一次試験の科目に少し不安がありました(笑)。ただ、ありがたいことにビーチバレーの成績で一次試験を免除していただけることがわかったので、適性試験で受験をしました。

「尾崎ならできる」
Q:養成所での訓練は、すぐに対応することができましたか?
いや……かなりキツかったです(笑)。長い時間自転車に乗るための体力がなかったので、特に周回練習では全然ついていけなかったんです。技能試験で入ったほかの候補生たちが普通にこなしているのを見て、こんなに差があるんだ、と思いましたね。
これを同じように普通にこなせるようにならないと、同じ舞台にすら立てない。早く追いつけるように、少しでも足並み揃えて卒業できるように、と思っていました。ただ、夏以降はもがきの練習が始まって、そこでは周回ほど差がないことに気がつきました。
Q:訓練を重ねていくなかで、「プロでもやっていける」という手応えもでてきた?
いえ、そこまではなかったですね。
ただ、瀧澤先生から「自分の信念を持ってしっかりと夢に向かって頑張れば、尾崎ならできる」と言葉をかけていただいて、それを信じて毎日過ごしていました。
Q:養成所生活の楽しみは?
私は朝練もしていたので、とにかく睡眠を欲していました。土曜日の午後からフリーで日曜日がお休みだったので、外出もせず、とにかくお布団にくるまってずーっと寝てました(笑)。それがすごく幸せでしたね。

養成所を卒業し、プロの競輪選手として歩み始めた尾崎選手。
ある日ぶつかった、大きな壁とは?
後編は近日公開予定です。