118期として、2020年にデビューした永塚祐子選手。
自転車の競技経験はなく、大学卒業後は約10年間企業に勤めた後に日本競輪選手養成所に入所したという異色の経歴でも知られています。

安定した会社員生活から、ガールズケイリンの舞台へと挑んだそのストーリーとは?

前後編でお届けするインタビューの前編です。

大学卒業後、大企業へ入社

Q:“OLからの転身”というキャリアをお持ちですが、学生時代はどのような活動をされていたのでしょうか?

学生時代はバスケットボールをやっていて、小学校では全国優勝、高校はインターハイ常連校に入ることができました。でも、怪我が多くて自分が目指しているところまでは到達できなかった。そこで、大学ではスポーツトレーナーを目指して勉強していました。

ただ、大学では座学に実技、実習と寝る時間もないような状態で……将来が見えなかったこともあり、挫折してしまったんです。そこから、衣食住に関わる仕事がしたいと考えるようになり、不動産会社の三菱地所レジデンスに入社しました。

Q:入社後は、どのような仕事を?

最初は営業職で、不動産の販売がメインでした。そこからモデルルームを作ったり、イチから事務所立ち上げたり、いろいろな仕事をさせてもらいました。毎日必死に働いて、時には事業部における賞もいただくこともできました。

“右肩下がりの人生”に感じていた

Q:会社員として、順調にキャリアを積み重ねていったんですね。

ただ、やはり大きい会社ですし、このまま続けていても会社の中枢にはいけないだろうなというジレンマは感じていました。それと、「スポーツで挫折した」ということが引っかかっていて、いつかそれと向き合わなきゃいけない、という思いはありました。バスケットボールをやっていた時と比べて、自分としてはどこか“右肩下がりの人生”に感じていたんです。

Q:とはいえ、収入も安定した生活ではあったわけですよね?

そうですね。でも、「1000万稼ぎたい」という目標をずっと持っていたんです。会社に在籍していても、その年収には届かないということはわかっていました。

スポーツを仕事にしたほうがいいんじゃない?

Q:結果的に、10年間企業に勤めた後に競輪選手となるわけですが、自転車との出会いは?

入社して2年目くらいの2011年頃に、街乗りのおしゃれなピスト自転車が流行った時があって、友達が自転車屋さんだったこともあり乗り始めたんです。最初はあくまで移動手段として、通勤に使ったりしていました。

Q:趣味の範囲というか、実用的に使っていた。

基本的には“おしゃれな移動手段”という感じでしたね(笑)。
でも、後輪をロックして滑らせる“スキット”という技だったり、バックしながら円を描くように走る“バックサークル”だったり、ピストバイクのトリックは友達と一緒にやっていました。

Q:そこからスイッチが切り替わったのは?

ひとつは、ガールズケイリンを特集したテレビ番組を見たこと。ちょうどその時期、周りからも「競輪選手になれば?」と言われることもありました。

もうひとつは、入社7年目くらいに少し時間が取れるようになったタイミングで、バスケットボールを再開したことです。

クラブチームに入って、全国大会を目指していたので仕事終わりに週5で練習していました。食べるのもキツくなるくらい練習を重ねて、仲間たちとミーティングして泣いたり笑ったり喧嘩したり……これだけ本気で打ち込むのであれば、スポーツを仕事にしたほうがいいんじゃないかと思いました(笑)。

交通事故で落ち込んでいた時に……波乱万丈のストーリー

Q:先ほどおっしゃっていた、スポーツと「向き合う」時がきた。

それと同時に、交通事故にあったんですよ。

Q:波乱万丈すぎます……。

首を痛めてしまって、バスケができないどころか、デスクワークしていても痺れてしまうような状態になってしまいました。
自転車に乗ることはできたので、それでストレス発散をしていた時に、川崎競輪場でバンク走行をすることができる「アーバントラッククラブ」というイベントを紹介してもらったんです。

そのイベントで1000mを計ってみたら、1分33秒というタイムが出て、「これなら競輪選手目指せるよ」と言っていただいて。そこで師匠である石井毅さんを紹介してもらいました。

Q:一気にストーリーが動き出しましたね。

当時、川崎はガールズの選手が少なかったこともあって、女子選手を増やそうというタイミングと重なったようです。そこで思い切って会社を辞めて弟子入りして、本格的な練習を開始しました。

年収1000万を実現するために

Q:当時、永塚選手は32歳。一般的に30歳前後は転職を考える時期でもあると思いますが、思い切った決断をすることの怖さはなかったですか?

明確に期限と目標を決めて、「3ヶ月で1000m:1分20秒を出すことができなかったら辞める」と決めていました。もしできなかったら、また仕事を探そう、と。実際、転職サイトに登録もしていました(笑)。やっぱり、会社に属していることで得られるメリットというのも感じてはいました。家庭だったり守るものがあったら、わざわざ捨てる必要はない、という考えもあると思います。

でも、「1000万稼ぎたい」という目標もありましたし、挫折したことが引っかかっていたのだと思います。覚悟を決めるためにも、周りに「競輪選手なる」ということを告げて、やらなきゃならないような状況を作りました。

Q:本格的に乗り始めて3か月で1000m:1分20秒という目標タイムは、高いハードル*のように感じます。どのような考えだったのでしょうか?
※118期まで、女子の技能試験にも1000m測定が含まれていた。118期の合格者平均タイムは1分19秒20。

なにもしていない状態で1分33秒だったので、10秒くらいは縮められるだろうとシンプルに考えていました。
また、“年収1000万”ということを考えた時に、当時の賞金ランキングだと、トップから10位くらいまでしか1000万を超えていなかった。そう考えると、在校成績1位を取る、養成所記録を塗り替えるくらいの力をつけなければいけないと思っていました。

大きな目標を胸に、大胆なキャリアチェンジに向け始動した永塚選手。
プロになったことで克服できたコンプレックスとは?
後編は近日公開予定です。