【始まりは青帽】東京理科大を中退して競輪の道へ 想定外の第1回記録会 石田典大選手インタビュー前編

2023年にデビュー、2024年6月には3場所連続完全優勝=特別昇級を果たすなど日々プロの世界で奮闘する石田典大選手。
123期として入所した養成所での第1回記録会は、「スピード、持久力共に劣る」という評価である青帽からのスタートでした。
どん底とも言える始まりから、どのような道を歩んでいるのか。
前後編でお届けするインタビューの前編です。
夢は物理学者、高校まで文化部

Q:はじめに、養成所に入るまでのストーリーを聞かせてください。もともと、何かスポーツはやられていたのでしょうか?
中学1年生までは水泳をやっていましたが、その後は生徒会と理科部に入っていました。高校からは放送部に入部。「日本拳法」をやっていたこともありますが、本格的にスポーツに取り組んだ時期はありませんでした。
Q:思いっきり文化部ですね。
通っていたのは日大豊山高校で、自転車部もあって迷ったのですが、放送部を選びました。
校内放送をしたり、コンテンツを作ったり。アナウンスと朗読の大会に出るための練習もしていました。
高校の間は放送部の活動をしているか、勉強しているかのどっちかでしたね。
Q:その後は、理系の名門大学である東京理科大学へ進学。当時、どういう将来像を描いていましたか?
高2年くらいから物理に興味を持って、研究職志望で大学に進みました。
宇宙系の勉強をしたかったので、大学卒業後は東大の天文学系に博士課程で入って、研究職に就きたいと考えていました。
スポーツへの入り口はダイエット目的⁉︎

Q:そんな明確なビジョンを描いていたなか、大学ではパワーリフティングを始めたそうですね。
ほとんど運動をしていないにも関わらず、ものすごくご飯を食べていたので、どんどん体重が増えてしまって……大学では筋トレを始めようと考えていたなか、独学よりは部活の方がいいかなと思ってウェイトトレーニング部に入りました。要は、ダイエット目的です(笑)。
パワーリフティングは、もともと専用の補助具を着用してやる「フルギア」という種目が主流だったのですが、ある時からそういったものを使わない「ノーギア」が注目されるようになったんです。
うちの大学は、フルギアの大会にノーギア装備で出場していたのですが(笑)、時流が僕たちに向いたおかげで、全日本学生パワーリフティング選手権(インカレ)で3位(83kg級)という結果を残すことができました。
Q:物理学を勉強していたことで、「重いものの持ち上げ方」にアカデミックにアプローチできたのでしょうか?
有利に働くと信じていましたが、正直何も(笑)。人体には関節が多いので変数ばかりになってしまって、それぞれを全部いじらないと計算できない。手計算では難しいし、プログラミングもできない分野だったので……
夢を見失って出会った競輪

Q:すごく面白いお話なのですが、今のところ競輪選手へのストーリーがまったく見えません……
もともとは宇宙の勉強がしたかったのですが、大学2年の頃に地球物理学に興味が移りました。ただ、自分としては行きたい研究室がなくて、勉強へのモチベーションが落ちてしまったんです。その結果、パワーリフティングの方に熱中していって、最終的には筋トレしすぎて大学を留年することになってしまいました。
「この先どうしよう」と考えている時に、たまたまジムで元競輪選手の方と出会い、競輪選手になりなよと声をかけてもらいました。
Q:その時点で、競輪というものを知ってはいたのでしょうか?
『弱虫ペダル』の影響でロードレースは知っていましたが、競輪についてはほとんど何も知りませんでした。ましてや自分が競輪選手になるとは一切思ってなかったです。
あと2年頑張って駄目だったら諦めよう
Q:それでも、養成所の入試を受けることになったのですね。
大学を中退して、すぐに願書を提出しました。インカレ3位で適性試験の一次試験を免除されることはわかっていたので、まずは1回受けてみようと。
一次試験の体力測定は自信が無かったのですが、ワットバイクで良い数字が出せるのではないか、と思って。
Q:……その結果は?
落ちました(笑)。おそらく受験者の中で、ワットバイクの数値が一番低かったんじゃないかと思います。
試験当日、自分の前にいた邊見祐太選手(新潟・119期)が軽く2100wくらい出していたので、「ここはめちゃくちゃ数字が出やすい環境なんだ」と思ったのですが、自分が踏んだら1500wくらい。「あれ?」と思ったのを覚えています(笑)。ペーパーテストだけだったら満点を出せる自信があったのですが……
Q:学力には自信があったんですね(笑)
試験に落ちた後、2年間は頑張ろうと決めて、アマチュアとしてトレーニングを重ねました。
2年目以降は技能試験を受け、3回目で合格することができました。
第1回記録会で想定外の青帽

Q:ユニークな経歴にお話が寄り道してしまいました。ようやく本題となりますが、念願の養成所入りを果たした直後、第1回目の記録会で青帽という結果となります。この時の心境はいかがでしたか?
嘘だろ、と思いました(笑)。
Q:養成所に入るまでの2年間のトレーニングで、タイムには自信があったのでしょうか?
はい。ほとんど経験がない3000mはともかく、ハロン(200mFTT)は問題ないはずなので、黒帽は取れるだろうと思っていました。それが、いきなり失敗してハロンで11秒77。
記録会ではゴールした直後に放送でタイムがコールされるのですが、聞き間違えじゃないかと思いました(笑)。その後、「1000mで挽回しよう」と意気込んで挑んだら、1分11秒04。「終わったな」と思いました。
Q:想定外の結果だったわけですね。
同部屋だった池邉聖さんと高橋海月とは、記録会の前に「白か黒だろう」と話していたのですが、3人とも青帽。おかしいなって言い合ってました(笑)
嫌でも突きつけられる青い帽子
Q:青帽という結果は、候補生同士でも話題になったりするものなのでしょうか?
コロナ禍でそれほどトレーニングを積めない状態での記録会、ということもあってか、1回目の記録会では30人以上が青帽だったんです。だからそんなにフォーカスされることはなく、「次頑張ろう」という感覚でした。
タイムよりも競走で強いことが重要だ、というような風潮もありましたし、少し特殊な期だったかもしれません。
Q:ではすぐに切り替えて、トレーニングに励むことができた?
正直に言うと、1ヶ月くらいは引きずっていました(笑)。
2回目の記録会までは約3ヶ月期間が空くのですが、その間毎日、練習の時に青帽を被らなくてはならない。突きつけられているようで、屈辱とまでは言いませんが、隠せるものなら隠したいと思っていました。
2回目、3回目の記録会では取り返して、青→白→金だと思いながら練習していました。
