世界選手権でスプリント10連覇を達成、競輪では史上最多6回の賞金王……「ミスター競輪」「世界の中野」など数々の異名とともにその名を轟かせ、現在も公益財団法人JKA顧問/JCF副会長/JCF選手強化委員長として、現場に携わっている中野浩一氏。

他の誰も成し遂げていない功績の裏には、名ビルダーとの絆がありました。

NAGASAWAの自転車とともに中野氏が歩んできた道のりを、自転車業界に刻んできた歴史とともに伺います。
前後編でお届けするインタビューの前編です。

出会いは世界選手権の選考合宿

中野浩一

Q:まず最初にNAGASAWA代表・長澤義明さんと中野さんの最初の出会いを教えてください。

初めて長澤さんに会ったのは、一番最初に出場した1976年の世界選手権(イタリア)の前。高校を卒業して競輪学校(現在の日本競輪選手養成所)に入って、1975年にデビューして1年でA級1班(現在のS級1班に相当)に上がった頃でした。

所属していた久留米で、「お前強いんだから出ろ」と地区プロ(地区プロ自転車競技大会)に出場することになって。そこで優勝して、菅田順和さんと久保千代志さんと一緒に世界選手権に出場できることになったんです。

当時は世界選手権メンバーを選ぶ選考合宿があって、メカニックとしてそこに参加していたのが長澤さんでした。NAGASAWAのフレームを使っている選手が他にいたんですよ。

乗り始めたら“ポンポン”と

中野浩一

Q:1976年の世界選手権では、NAGASAWAの自転車には乗っていなかったですよね?

当時、競技のことに関しては全くの素人で、競輪で乗っている自転車はあるけどバンクが違うし、どんな自転車に乗ったらいいか分からなかったんですよね。
そのなかで、岩手の加藤善行さんが「三連勝」(今野義氏が代表を務めた「シクロウネ」を代表するフレーム)を紹介してくれて、1976年の世界選手権(イタリア)はそれで出場しました。その結果、僕は4位で菅田さんが3位。

その時に「僕にもNAGASAWAのフレームを作ってください」って長澤さん本人にお願いしたんですけど、「お前は他のところの自転車に乗っているから、まだ作ってあげられない」って言われて。でもその後も何度も「そろそろ作ってくれてもいいんじゃないですか?」と言い続けて、最初に作ってもらって乗りはじめたのが1977年の4月でした。それからは、競輪の記念でポンポン連勝できるようになったんですよ。

Q:しばらく断られ続けていたにもかかわらず、長澤さんが作ってくれるようになったきっかけはあるのでしょうか?

長澤さんからすると、「今野さんに提供してもらっているから、すぐに乗り換えるわけにもいかないだろう」って。でも僕は、「その自転車は競輪では使っていないので、まずは競輪で使う自転車を作ってください」って頼んだんです。

それで競輪用の自転車を4月から使い始めて、その後の世界選手権の選考合宿で競技用の自転車も作ってきてくれたんですよね。普段競輪で使っていた自転車とは少し乗り心地も違いましたよ。

Q:具体的に、どんな点が違っていましたか?

競技では会場によって、バンクの形状がかなり違うんですよね。1977年の世界選手権が行われたベネズエラは333mバンクで、カントは40度以上あった。競輪よりも角度がきついから、その分ペダルを引きずらないように作られていました。そういうバンクで乗る機会も少なかったらから、最初はペダルを漕ぐのが怖かったですよ。現地に行って初めて乗るので。

Q:毎回ぶっつけ本番で挑んでいたのでしょうか?

そうです。でも、当時は1週間くらい前に現地に入って、本番までにトレーニングしてバンクに慣らしていました。
翌年1978年にミュンヘンなんてカントが48度くらいあって、みんなビビりまくってた(笑)。でも、そういう環境だとが分かっていたから、ミュンヘンに合わせて違うフレームを作ってもらいました。

きっかけとなった、とある“プレゼント”

中野浩一

Q:1977年にNAGASAWAの自転車に乗るようになってからは、ずっとNAGASAWAを使い続けることになったのですね。

ベネズエラでの世界選手権から日本に帰ってきた頃は、まだNAGASAWAの自転車がそれほど売れているわけではなくて、長澤さんはそんなにお金がなかったんですよね。でも、部品とかを積む車が必要でした。

そんななか、直後にあった『オールスター競輪(岸和田競輪場)』で、「ドリームレース」の副賞として車がついていて、だから出場メンバーで、1着になったら長澤さんに車をあげようって話をしていたんですよ。その時、たまたま勝ったのが僕だったんですよね。「タダでプレゼントしたくはないから、お返しはない?」って聞いたら「向こう10年間タダでフレームを作る」って(笑)。

それからも長澤さんが作ったフレームで活躍して、NAGASAWAがポピュラーになってそれなりに売れたこともあって、結局は競輪を辞めるまでタダで作ってくれたんですよ。

落車とかして壊さない限りは連絡しなくて、毎年5月の全プロ(全日本プロ自転車競技大会)の時に新しい自転車を持ってきてくれていました。競輪用も、1年に1回は変えようって作ってくれていました。

ハードな当時の世界選手権事情

中野浩一

Q:何度も出場された世界選手権の中で、印象に残っているエピソードはありますか?

最初に優勝した1977年の世界選手権(ベネズエラ)は、街道練習中に落車して頭を怪我した状態での出場でした。練習がてらバンクを見にいったんだけど、その帰りにロードレーサーのタイヤが外れて、そこに巻き込まれて頭を切って縫った状態だったんですよね。それで医務室でめちゃくちゃ注射を打たれた記憶があります(笑)。

Q:その状態で優勝できているのが信じられないです……。

ベネズエラは行くのも大変でしたよ。当時は北回りだからアンカレッジ経由でニューヨークに入って、ニューヨークからコロンビアに入って、コロンビアからベネズエラまでもう1回乗り換えて、今度は空港からバスで山の中まで走って。めちゃくちゃ遠かった印象があります。

Q:今はスタッフ陣も多く帯同していますが、当時はどんな陣営で世界選手権に向かっていたのでしょうか?

ケイリンはまだ種目としてなかったから、選手はスプリントとドミフォン(オートバイのペーサーを追走して距離や順位を競う種目)とか中長距離組。でも、メカニックを合わせても10人くらいしかいなかったかもしれないです。

Q:自転車をはじめとした荷物は、どのように運んでいたのですか?

基本的に自分たちで持っていくけど当時は梱包してなかったんです。一応フレームに軽くカバーを巻いてはいるけど、あとはそのまんま。ひどい時は、飛行機の座席にも乗せたこともありましたね(笑)。

競輪人気を高めたビジュアル戦略

中野浩一

Q:すごい時代ですね(笑)。フレームのカラーは赤。“中野レッド”とも呼ばれ、トレードマークといえるカラーとなりましたが、そのきっかけは何だったのでしょうか?

競輪のデビュー当時、選手会の事務局長を務めていた西栄一さんという方が、選手を売り出すための方法を模索していたみたいなんです。そのなかで、放送作家の塚田茂さん(『夜のヒットスタジオ』『8時だョ!全員集合』など数多くの番組を手がけた伝説の放送作家/演出家)に相談したところ、「色で印象づけした方がいい」というアドバイスをもらったそうなんです。

デビュー当時は紫色だったし、ブリヂストンのフレームを使っていた時代は青のフレームを使っていましたが、西さんに「お前は何色が好きなんだ?」と聞かれて赤になりました。菅田さんは白が好きだから白に。僕も菅田さんも国内でそれなりに活躍してきた時期で、ちょうど“紅白”で売り出せるじゃんって。

だから菅田さんが1番車の白で、僕が3番車の赤。ユニフォームもそうだし、自転車や手袋とかも。もちろんレースによっては1番車や2番車になっちゃう時もありましたが、3番が多かった気がしますね。

世界選手権から帰ってきて、菅田さんと記念レコード(1977年の世界選手権金銀制覇記念盤「明日につっ走れ/男なら」)を出した時も、赤と白の衣装を作ってもらいましたしね(笑)。

Q:『紅白歌合戦』みたいですね(笑)。

それこそ、その頃は大レースの前夜祭とかでお客さんを集めて競輪選手の歌合戦とかをやっていたんですよ。

あとは、スポーツ選手が集まる歌合戦もテレビでやっていて、そこではポップスを歌ってほしいっていうディレクターのリクエストもあって、沢田研二とか西城秀樹とか歌ってました。その歌合戦は1回しか優勝できなくて、連覇はできませんでしたが(笑)。

競輪をもっと広めるために

中野浩一

Q:競輪や競技はもちろんですが、芸能など多方面で活躍することで日本の競輪・自転車競技全体を引っ張ってきたという印象があります。それは今でも同様で、2016年には「レジェンドレース」にも出場されていましたよね。

もう自転車にはほとんど乗らなくなっちゃいましたけどね。昔みたいに乗れないのが分かっているので。エンジンをつけた誘導員ならやってもいいかもしれないですね(笑)。

Q:当時はどんなことを考えて競輪や競技に取り組んでいたのでしょうか?

やっぱり”競輪をスポーツとして見てもらいたい”っていう気持ちが大きかったです。だからこそ、挑み続けられたんでしょうね。