世界選手権でスプリント10連覇を達成、競輪では史上最多6回の賞金王……「ミスター競輪」「世界の中野」など数々の異名とともにその名を轟かせ、現在も公益財団法人JKA顧問/JCF副会長/JCF選手強化委員長として、現場に携わっている中野浩一氏。

NAGASAWAとともに中野さんが歩んできた道のりを、自転車業界に刻んできた歴史とともに伺うインタビューの後編です。

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勝ち続けないと認めてもらえない

中野浩一

Q:現在は競輪と競技を両立する選手も多いですが、当時の状況はかなり違ったのでしょうか?

世界タイトルをとるのは早かったから注目はしてもらっていましたが、競輪では勝てないこともあって、「世界チャンピオンでも勝てないんだ」と言われていたのは覚えてます。「スプリントで世界一かもしれないけど、あいつは競輪選手じゃない」って。

だから、国内で競輪の賞金王になるのと、世界チャンピオンでいるのが一緒になった時に初めて、世の中に認めてもらえると思っていました。結果として、1977年、初めて世界選手権で優勝した年に賞金王になれました。1回だとなかなかアピールできないから継続するのが大事だと思っていて、最終的には6回賞金王になれたんですよね。

Q:その間、世界選手権の10連覇へも同時に突き進んでいました。

当時の連続優勝記録が6回だったから、新記録を作りたいっていう思いはありました。そのプレッシャーで気持ち的に疲れてしまった部分もありましたが、7回目も勝って当時の記録を更新できました。

そこからは、プロ野球で川上哲治さん率いる巨人が9連覇したから、それを越えようって(笑)。たしか7連覇したくらいのタイミングで、川上さんとラグビーの森重隆さんの3人でゴルフをやったことがあったんです。その時のゴルフは、僕も森さんも川上さんにはスコアで敵わなかったんですけど、森さんが「川上巨人の9連覇は破れよ」って言ったんですよね。ゴルフは負けたけど、自転車で果たしてくれって(笑)。

実際、10回ってキリがいいし、ちょうど10回目がアメリカ大会だったからアメリカンドリームみたいな感じでちょうどいいかなって。

NAGASAWAも世界的な存在へ

中野浩一

Q:中野さんの活躍に連れて、NAGASAWAが世界から注目されることもあったのではないでしょうか?

海外から、NAGASAWAのフレームを見に来る人はいましたね。当時、世界選手権に出ていた久保千代志さんとか、高橋健二さんとかもNAGASAWAに乗っていたし、競輪でも特別競輪の決勝メンバーはNAGASAWAに乗っている選手が多かったです。

Q:一緒に時代を作ってきたような感じがしますよね。現在は、大会に出場する際は予備をいくつか持っていくのが主流ですが、当時はどうしていたのでしょうか?

基本的には1台だけでしたね(笑)。

ビルダー・長澤が作るものなら信頼できる

中野浩一

Q:世界選手権で10連覇する間に、フレームの作りが大きく変化したことなどはありましたか?

1978年のミュンヘンはカントの関係でちょっと違う仕様にはなっていたけど、それ以外は大きな変化はなかったかなと思います。今は周長もカントも決まっていますが、当時は行くところによって板張りだったりアスファルトだったりバンクがバラバラでした。だから体感は変わるのですが、現地に行って乗って、ここはこういう感じに走ろうって合わせにいっていました。

Q:中野さんの方から、自転車の作りに関してリクエストをすることはあったのでしょうか?

いえ、基本的には長澤さんが全部考えて作ってきてくれました。「今回いいのができたぞ」と言って持ってきてくれるんですよ。全部セッティングした状態で渡してくれるから、そうしたら「はい、これね」って前の自転車を返すの。毎年それに乗っていきなり全プロを走っていました。

「今回いいのができたぞ」って新しい自転車を持ってきてくれて、タイムが出ないと「お前が悪い、お前の練習が足りない」とか言われてましたね(笑)。

Q:その時は、何台か異なるモデルのものを試して、実際に乗るものを決めていたんですか?

いや、そういうことはなかったですね。「これだ」って渡されたものに乗るだけでした。

Q:信頼関係が出来ているからこそ、ですね。

1度、サドルが動いて負けちゃった時に、「ネジ締まってないじゃん」って文句を言ったことはあるけどね(笑)。

あとはチェーンがちょっと硬いから遊びを作ってほしいとか、少し小さめがいいとか、細かい部分の話をした記憶はありますが、長澤さんはちゃんとしたものを作ってくれる、と全面的に信頼してました。僕の走りとかを見て、調整してくれているんだろう、って。やっぱり、大事なのはメカニックと選手の信頼関係ですね。

自転車作りにひたむきに

中野浩一

Q:あらためてですが、長澤さんはどんなビルダーだったのでしょうか?

イタリアから、今までと違う考え方を日本に持ち込んできたのが長澤さんだった。ハンドルポストを長くしたり、部品もそれまでなかったようなものを各メーカーさんに色々リクエストしたりとかして。すごく、職人気質な人でしたよね。昼間はあんまり仕事しなくて、朝は寝てるから絶対電話するなってタイプで(笑)、そのかわりに夜中まで仕事していたイメージ。自転車作りに対して、ものすごくストイックでした。

Q:プライベートで交流することもありましたか?

大阪に行った時は、長澤さんの家に泊まったこともありましたね。
あと、長澤さんに出会った1976年の世界選手権はイタリア(レッチェ)だったんだけど、長澤さんはイタリアで自転車作りの修行をしていたから、色々と連れていってもらいました。そこで、ワインの美味しさを教えてもらいました。

Q:そのワインは、もちろん……?

赤でしたね(笑)。

どっちが欠けても結果が残らなかった

中野浩一

Q:そうやって信頼関係を築き上げてきたんですね。

最初の方は、僕も高さが合っているかとか気にしていたんですけど、普段の長澤さんを見ていると、間違いないだろうと思うようになりました。
僕たちが気にもしないような細かいところまで測って調整してくれているんだから、これなら信用できるなって。レースに出る時も長澤さんにセッティングしてもらって、外していたハンドルをポンと入れてネジを締めたら完成ですから。

Q:中野さんにとって、NAGASAWAの自転車はどんな存在でしたか?

現役の時から、「自転車とは」と聞かれた時は「商売道具」と答えていたのですが、長澤さんはその信頼できる商売道具を作ってくれた人。
当然、自転車はパートナーだから、それを作っている長澤さんもパートナーでした。今となってみれば、お互いにとってすごくいい関係が生まれたんじゃないかなと思います。どっちにとっても、プラスになっていましたね。

Q:お互いを支え合うような存在?

そうですね。NAGASAWAが有名になったきっかけのひとつは僕だとは思うけど、自分もそのおかげで結果が出せたので。僕だけ頑張っても結果が出たわけじゃないし、長澤さんがいいものを作っても僕が頑張んなきゃ意味ない。どっちが欠けても、結果は残せなかったと思いますよ。

中野浩一