史上最多6回の賞金王に輝いた功績をもつ名誉教官の中野浩一氏と、2025年3月まで15年間にわたって日本競輪選手養成所の所長を務めた瀧澤正光アドバイザー、そして神山雄一郎現所長。
数々の記録を打ち立て、現在は育成の最前線に立つ“競輪界を代表するレジェンド”のお三方に、日本競輪選手養成所のあり方や、今後の競輪界に求める人材を語り合っていただきました。

前後編でお届けするインタビューの前編です。

“レジェンド同士”のそれぞれの印象は……?

瀧澤正光(以下、瀧澤):中野さんは、日本のプロスポーツ選手史上で初めて年間獲得賞金が1億円を超えた方で、あまりにも偉大な功績をたくさん残してきました。もう神の領域にいる人という認識で、本音を言えば恐れ多いという印象があります(笑)。

神山雄一郎(以下、神山):中野さんが世界選手権のスプリントで10連覇を達成した時期は、僕が高校生だった頃でした。父親は自転車愛好家だったこともあって、中高生の時に「中野っていうすごい選手がいるぞ!」って一緒に見ていたんです。下敷きに中野さんの切り抜き写真を入れていたくらいなので、憧れの存在でした。競輪というスポーツを日本に広めていただいた方であり、本当に偉大な存在だなと感じています。

中野浩一(以下、中野):神山くんは競輪学校(現・日本競輪選手養成所)時代から知っているけど、デビュー前から力をつけていた印象ですね。

瀧澤:自分よりかなり後輩ですけど、神山くんは超スーパーエリートっていうイメージでしたよ。自分にないものを持っていて、1984年のロサンゼルスオリンピックでスプリント銅メダルを獲得した坂本勉さんと同じ匂いを感じましたね。

中野:瀧澤くんはデビュー当時、そこまで目立っていた印象ではないのですが、途中からどんどん強くなって、同じ出走レースも増えて、一緒になると逃げ切るのがなかなか大変な選手だなと感じていました。だからこそ、瀧澤くんがどういうふうに強くなっていったのか、その経験を養成所の候補生たちに教えていってほしいと思うんですよね。

神山:僕が候補生だった頃は、すでに瀧澤さんが「怪物」と呼ばれて第一線で活躍していた時代。先行選手として戦い抜いている姿をずっと見ていたので、同じ土俵に立って主導権を握って逃げたい。「打倒、瀧澤!」みたいな感じで、目標にしていた記憶があります。

ともに戦った思い出のレース

中野:僕の現役最後のレース(1992年『高松宮記念杯競輪』決勝)では、この3人が揃っていましたよね。

 

 

瀧澤:それぞれ着順に思いがあると思うので、個人的にはあんまり触れない方がいいかなと思っていたのですが(笑)。

※結果は瀧澤氏1着、中野氏2着、神山氏4着

中野:競輪学校時代、競走訓練では1着もたくさんとってたんですが、卒業記念みたいな節目の競走になると2着になることが多くて……。デビューしてからはいろいろなレースで勝つことはできましたけど、最後は敗れて2着。あれはあれで自分らしくていいのかなと(笑)。G1タイトルも宮杯(高松宮記念杯競輪)だけ取れずに終わってしまって、当時は悔しかったですが、納得しています。

神山:僕の場合、あのレースはただ先行することしか考えていないレースでした。後ろがどうなっているかはわからないけど必死に駆けて、4コーナーで追い抜かれてしまったのですが、4着には粘ることができたので、これから大レースの決勝でもやっていけるんじゃないかと、自信を持つきっかけになったレースでしたね。

中野:神山くんとは過去に連携したレースもありましたよね。

神山:正直、かなりのプレッシャーでした(笑)。

今あらためて思う競輪の魅力

中野:当時は出走表のコメントがなかったから、控え室で戦術の探り合いみたいなのがありましたよね。「これが神山選手か」なんて雰囲気を出していると、周りからいろいろと推測されたり(笑)。

瀧澤:人間観察して、挙動とかいろいろな部分でレースを推測していましたよね。「自分と戦うつもりなのかな?」とか、そういうのを感じ取る感性も必要でした。

中野:スタートしてから、想定と違ったなと思ったら隙間に入るとかね。そういう意味では、今と昔で競輪の楽しみ方も少し変わってきたように思います。車券を購入するお客さんも、いろいろと展開を予想していて。

瀧澤:コメントがなかった時代だからこその楽しみ方ですよね。

中野:選手側の目線としても、はっきり決まっていない分、能力が試された気がします。やはりしっかり考えて、しっかり脚力のあった選手が勝てる世界でした。今は周りの動きや展開によってレース内容も大きく変わるので、その点がお客さん側からしても面白いんじゃないかなと思います。

神山:レースを予想する上では難しく感じるお客さんもいるかもしれないのですが、ライン戦も競輪特有の魅力ですよね。地域や同期などの仲間同士で戦うので、仲間意識が生まれます。走る側としても選手同士の絆を感じられる点は、魅力に感じていました。

瀧澤:他の公営競技と比べても、競輪は走っているのが人である分、車券を買ってくれる側のお客さんも心情などが投影しやすいんじゃないかなと個人的には思っています。人間同士なので、応援したいという気持ちになってもらいやすいし、選手にもお客さんの声がダイレクトに届くと思います。

「生活が競走に出る」養成所という“原点”

瀧澤:候補生たちを見ていると、「卒業したら先行したい」と考えていても、養成所にいる時はなかなか実践できていない。確かに養成所のレースは味方が少ないし、単騎で先行した時のリスクは高いのですが、その中でもしっかりやれる強いハートを持っていると、卒業後はより強力なパワーが生まれると思うんですよね。

中野:養成所では練習だから、勝っても負けても関係ない。例えば、今日は内側の方から行ったけど、今度は4コーナーの方から行ってみようとか、その時のメンバー構成や状況に合わせて自分がしたい競走をしっかりやる。そういうふうにできる候補生は、デビュー後に勝てる選手へ成長していくと思います。あと、養成所の同期は、そのうち敵として戦うこともあるライバルですが、切磋琢磨し合う仲間でもあると思うんですよね。だから競輪そのものを勉強するだけでなく、一緒に生活する中でいろいろなことを学ぶ場として養成所は非常に有益だと思っています。

神山:やはり養成所は、競輪選手になる原点。ここでの生活をどれだけ大事にするかが最も大事だと考えています。たとえば、時間がしっかり管理されている点も、競輪選手になってからの予行練習になっています。デビューしてからは、すべて自分で管理して決めないといけないですからね。

瀧澤:所長をやっていた時は、“生活が競走に出る”と候補生によく言っていました。だらしない生活をしている人は、だらしないレースをする。決めつけのような言い方で申し訳ないですが、走りに顕著に反映されていたので、養成所での生活は大切に思っていました。

神山:競輪選手は、選手であるだけでなく、監督、コーチでもあるんですよね。心が弱い人だと、自分に甘えてしまう。そのためにも、僕や先生方、瀧澤アドバイザーなどの講義を通して、候補生の心も育てたいという思いがあります。

考え、続け、受け入れる──強くなる候補生の条件

中野:さっきの競走訓練の話もそうですが、強くなっていく選手は、何をするにしても考えて行動していると思いますよ。自分がどうなりたいか、どこをどうしたらどうなるかを試しながら練習している候補生が強くなることができます。

瀧澤:あとは素直さも大切ですよね。自分の中で得た考えも大事かもしれないですが、アドバイスされたことに対して素直に受け入れられる候補生は伸びていく人が多かったように思います。

中野:強くなりたいという気持ちを、ずっと持ち続けられるかどうか。どこかでこれでいいやって諦めてしまうと、それ以上できない。気持ちを持ち続けると、当然練習も継続できますよね。

神山:強くなるためには、ある程度の素質や運も必要です。特別競輪で優勝することなのか、競輪生活を60歳まで続けることなのか、強さの基準をどこにもっていくか、さまざまな考え方があると思いますが、僕はしっかり努力し続けられる人ほど強いと感じます。練習し続けられる気持ちが強い人は、競輪選手としても強くなりますね。

瀧澤:中野さんも神山くんも、学校時代からスーパーエリートだったと思いますが、私は適性試験で入っていたので、必死に練習しないと大変でしたよ(笑)。

中野:とは言っても、競輪学校に入るまでの7か月しか自転車経験がなかったけどね。

※中野氏が競輪学校に入った時代は、適性試験が行われていなかった

瀧澤:そうですよね。スーパースターだから、すぐ受かっちゃった(笑)。

中野:だから周回は弱くて、最初の頃は他の候補生に1周抜かれてしまうくらい持久力もなかったんです。休みの時は自主トレの時間があれば自転車に乗って、外出もせずに練習しているか、CSC(日本サイクルスポーツセンター)に行っているかの日々でしたよ。僕だって、強くなるためにちゃんと努力してきましたから(笑)。

<鼎談プロフィール>

◾️中野浩一
福岡・35期として1975年に競輪デビュー。世界選手権でスプリント10連覇を達成、競輪では史上最多6回の賞金王に輝いた経歴を持ち、「ミスター競輪」「世界の中野」など数々の異名を持つ。1980年には日本のプロスポーツ選手として初めて年間獲得賞金が1億円を突破し、競輪生涯成績は1236走中666勝。現在は競輪・自転車競技などの解説に加え、公益財団法人JKA顧問/JCF副会長/JCF選手強化委員長を務める

◾️瀧澤正光
千葉・43期として1979年にデビューすると、1984年に「日本選手権競輪」を制してG1初タイトルを獲得。以降、特別競輪での優勝を重ね、1990年にはグランドスラムを達成。中野浩一や井上茂徳らと共に競輪黄金世代の一翼を担った。2010年に「競輪学校(現・日本競輪選手養成所)」の第23代校長に就任。定年までの15年間トップを務め、現在も「養成所アドバイザー」として候補生の指導に当たっている

◾️神山雄一郎
高校より自転車競技に取り組み、競輪学校を在校成績1位で卒業すると、栃木・61期として1988年に競輪デビュー。翌年には世界選手権スプリントで銀メダルを獲得するなど競技でも活躍した。1999年に史上3人目のグランドスラムを達成し、G1優勝は歴代最多の16勝。35年9ヶ月にわたって S級に在籍し、通算獲得賞金も歴代1位の29億円以上。2024年に現役を引退。2025年4月より日本競輪選手養成所の所長を務める

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